幼い頃の記憶 




 私の実家はその昔「遊郭」だった街のはずれにあります。        
実家には18歳まで居たのですが、意外と「おくて」?だった私はそのような過去の事実
については知る由もなく、何故かふるさとを離れて京都へ転居してから、このようなこと
について、逆に興味を持ち、いろいろな文献をむさぼったような記憶があります。      
今では色街の面影はなくなってしまいましたが、私の幼かりし頃はまだ遊郭の名残が
あちこちに残っていました。今では痕跡もありませんが、当時は遊郭への入り口の大門
があった場所とかもはっきりわかりました。




(昭和20年代後半の我が家。後ろは祖母、この頃私はまだ生まれていません。)


 大体に於いてこの町内では家のつくりが同じなのです。間口が割と狭くて奥行きが異
常に長いのです。簡単に言えば細長くて、それに玄関がやたらと広くて、細長い家の玄
関側と、奥のほうに2つ階段があるのです。子供が家の中でかくれんぼをしたりするのに
はうってつけの構造で、よく同じ町内の友人の家に行って遊んだものです。
奥の二階は通称「タコ部屋」といって、お妓さんたちが住まいをして、お客さんをとる部屋
がありました。私の実家も、もとはといえばこの類の家だったようで、私の勉強部屋も
もとは「タコ部屋」だったということでした。
 この町内では、昔の名残で名前を屋号で呼ぶ慣例がありまして、「**楼」という名前
がまかり通っていました。今はおそらくこの慣例はなくなっているのではないかと思います。

 さて、三味線の話なのですが、このような色街ですので、売春禁止法が施行された後に
料亭や、芸者さんの置屋さんに転身したところが多くて、昼下がりになるとどこからともな
く三味線の音が聞こえてくるのです。小学生の頃は近所の若い芸者さんのお妓さんによく
遊んでもらった記憶があります。遊んで貰ったと云っても妙な遊びではなく、純粋に子供
の遊びですが・・・。



昭和20年代半ばの祖母の姿です。私の大好きなショットの一つです。
颯爽と肩で風を切って歩いてますねぇ。おそらく魚津町神明社の祭礼だと思われます。



私の祖母はその昔芸者さんをしていたそうで、当時は三味線の名手だったそうです。しか
し、私の物心付いた頃以降、祖母が三味線を弾いているのは1回しか聞いたことがありま
せんでした。その1回というのが祖母が私の兄に「金比羅舟々」の三味線を教えていた
時でした。兄が三味線を触っていたのもその時だけのようで、その後祖母は病気を患って
亡くなってしまい、祖母の三味線は納屋の奥深くにかたづけられてしまったのでした。

高校生の頃一度納屋の奥からその三味線を探してきて、おもしろ半分に弾いているところ
を親に見つかってしまい、それ以降つい数年前まで祖母の三味線は私の目に触れない場
所にひっそりと隠されてしまったのでした。

30代半ばになって、何故か三味線を始めるようになったのも、このような幼かりし日の断
片的な記憶が脳の奥深くにあったからなのかもしれません。

祖母の形見の三味線は、紆余曲折を経て今私の手元にあります。最近は津軽三味線一
辺倒になっていますが、また近いうちに祖母の半生の記憶の染みこんだ三味線でどこか
の舞台に立ってみたいと思っています。







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